スコ丸ブログ

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学習塾の〇〇大学☓名合格!の虚しさ。

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 学生たちの夏休みも四分の一が終わろうとしています。と言っても、今の学生たちは学習塾での勉強に忙しく、遊ぶ時間は僕が子供のときと比べてもだいぶ減ったんじゃないでしょうか。

 そんな学習塾ですが、最近は大学名と合格者数を横断幕に掲げているものが多い気がします。しかし、顧客である親へのプロモーションとしては正しいのですが、子供の楽しい学習としては誤りではないかと思います。

 結論から言いますと、勉強もスポーツと同じで向き不向きがあります。大学名ではなく自分に合った学習をしてくれる塾に行くべきだし、塾側も子供の適正を考えるべきだと思うのです。

 さて、教育を語る上でいくつかのベクトルがあります。①国の将来の担い手の育成、②子供の「楽しい」学習時間の充実、③教育水準の平等化 この3つについて話したいと思います。

 

 ①として、当然ながら日本の今後を担う人間を育成するという視点です。

 この今後を担う人間に対する教育はどうすれば良いのでしょうか。そもそも、「担う」とは何なのか? 例えば、省庁で働く人間は担っていて、引きこもりの人間は担っていない。とかでしょうか?

 僕は、メディアで語られる教育論に関して、この「担う」という言葉が何を定義するのか曖昧なままで議論をしているので意味のない空論のぶつけ合いになっている気がします。

 「担う」を考える上で、今回は経済、つまりお金で考えてみます。

 「担う」は「お金なの?」と、教育評論家に怒られそうですが、お金以外に明確なものって有るのでしょうか。国の幸福度でしょうか。確かに重要な指針です。しかし、「一人あたりのGDP」と「幸福度」には関連が有ることが認められています。

GDP/人口が高いほうが、幸福度も上がりやすい。日本・ブータンのような外れ値も多い)

 つまり、一般的に幸せな国を作りたければ豊かになる他ないのです。「住食足りて礼節を知る」では有りませんが、経済的に満足してからがスタートとも考えられます。

 では、この経済で考えると「引きこもりの人間」でも、消費します。衣も食も必要です。これの供給源が必要ですので、それだけでGDPを少しだけでも引き上げています。

 何が言いたいかと言うと、消費者というだけで担い手として十分ということです。ただ、欲を言えば、エリート層だけが担い手というわけではなく、職人、研究者、事務員、作業員、などなど様々な人間が担い手として必要になります。

 「担い手」というのは有る特定の職業や年収層を指すのではなく、様々な人間が沢山必要になるということになります。

 確かに、学歴と収入の関連性は確認されていますし、収入は高いに越したことはないので、学歴への要求は高くなります。しかし、学歴は高い収入を約束するものでもなければ、大学は職業訓練所でも有りません。

 教育は多様な次世代の担い手を作るところであることを考えれば、学歴よりも個人の多様性を認める場所であってほしいと思います。

 

②子供の「楽しい」学習時間の充実に関してですが、これは絶対に必要です。

 僕は、学校がつまらないからイジメも不登校も起こると思います。よく子供が「数学って必要?」と聞いてきます。僕から言わせれば、「数学・物理は必須だけど、国語と社会は不要」と答えたいくらいです。勿論、これは冗談ですが、勉強が社会でなんの役に立つかどうかなんてわかりません。

 役に立つかもしれないし、立たないかもしれません。

 重要なのはそこではないからです。

 重要なのは、数有る教科の中で何が楽しいと感じるか?だと思います。

 例えば、「一般科目は何も楽しくないけれど、家政科での縫製だけは楽しかったと感じる」としたら衣類の仕事につけるかもしれませんし、適当な仕事をしながらネット販売で手作りの服を売るなんてことも出来るようになります。

 「楽しいこと」というのは「才能が有ること」なのです。楽しいことはやってて時間を忘れます。

 いくら嫌な勉強を努力して、国公立大学に行けたとしても、その後に続くのは嫌な努力の連続です。楽しいこと・才能の有ることを伸ばして、そこで勝負するというのもこれからの時代なら可能だと思います。

 勿論、これからの時代は「知らないと負ける」ことが多くあります。いくら服が好きで作っても、「売り方を知らない・値段設定を知らない・自分の衣類が誰が欲しがるかを知らない」では時間の無駄です。その程度はリサーチできる頭は必要となります。

 結果として、多少の勉強は必要ですね。

 ただ、学校での社会性は不要だと思います。

 僕は田舎の出身ですが、中学・高校・大学とコミュニティの形が全く異なりました。

 「気の合わないコミュニティで我慢して過ごす」より、「気の合う人と好きなだけ一緒に居る」方が何倍も有益です。これだけ技術が発達しているのだから、学校が楽しくないのならば「在宅ワークならぬ『在宅学習』」を採用する時期が来ていると思います。

 

③教育水準の平準化に関しては難しいのですが、一般論として偏差値は田舎より都会のほうが高いです。また、世帯収入が高い方が低い方より偏差値が高いです。

 経験として、田舎の塾講師はレベルが低くなりがちです。理由は、講師に対する研修などが行えないことと、講師向けの講師が田舎にはほぼ居ないからです。

 こうなると、講師も自己学習することしか出来ず、画一的な教育しかできなくなります。多様な子どもたちには当然対応出来ません。

 こうなると、学習効果も多様性への対応も出来ないままです。

 

 今の塾や学校の問題などを考えてみました。

 特に、これといった答えは出ませんが、この教育問題は高齢化にもつながる問題です。

 炎天下の中、学習塾が開くのを待っている子どもたちを見て思ったことを書きました。