<日記>何故人々は23時過ぎになると「バルス!」と叫びたくなるのか。
毎年ではないけれど、ラピュタがテレビで放映されるとすぐに「Twitter」で「バルス」を検索してしまいます。
僕も学生時代は、ムスカが「3分間待ってやる」と言った時は携帯電話を持ってワクワクしていたものです。今は、TwitterもFacebookも辞めているので、ブログで叫ぼうかと思っています。
まあ、まだまだ時間はあります。
僕は「ラピュタ」よりも「千と千尋」派なのですが、生憎「千と千尋」には合言葉がなかったので、インターネットを通してまだ見えぬ同士たちと叫ぶことは出来ませんでした。強いて言うなら「お婆ちゃん駄目、ここにはお父さんもお母さんもいないもん」でしょうか。・・・いや長いから駄目だな。
みんなで「バルス」を叫びたい理由って、少し前の「タピオカブーム」にも同じことが言えると思います。
タピオカブームって、「タピオカ美味しい」ってことよりも「タピオカを飲んでいる姿をSNSで共有する」ことこそが大事です。皆と同じことをする、これは連帯感を感じます。
バイクで旅行した、旅先でバイク出来た客に会うと話が合います。ライブに行くと隣の人と仲良く歌ってたりもします。でも、ギターショップで試奏している時はどちらが上手いかでマウンティング大会になってしまいがちです。
僕は、ここに「バルス」と叫びたくなる理由が隠れていると思います。
①バイクとライブは、「自分の実力」は関係なく「バイクやアーティストが好き」という感情だけです。バイクやアーティストがいくら好きだろうと、周りからよく見られることも有りませんし、特にメリットもデメリットもありません。
①は、ただ好きなだけです。
②ギターになると「練習量」や「センス」が入ってきてしまい、差が出てきてしまいます。ギターだけが趣味の人が仲良く「楽しいね」で終わることって少ないような気がします。僕自身そうですが、「ギターしか弾けない」為にバンドの中で自分よりもギターが上手い人が居ると自分の存在意義はなくなります。楽器をするなら2種類以上は楽しんで出来る程度にはなっておきたいものです。
②は、居場所が絡んでいます。
「バルス」と叫ぶのに「どれだけ素晴らしくツイートしたか」とか「時間ぴったりだった」とかでは自分の居場所を作ることなんて出来ません。ただ、皆で叫んでツイートして楽しいだけです。
これが、「バルス」が楽しい理由だと思います。
また、人生を楽しむポイントな気もします。
「何かを頑張る」ということでは、人と連帯感を持って楽しむことは出来ないのです。楽しんでいる人は「頑張らずに楽しむ」ことが出来ているのです。
ギターでも、「全員ギターで楽しく伴奏」などだと仲良しで楽しそうにしています。
「楽しむ」ことを軸にすると、本当に楽しくなるのです。しかし、そこでふと「隣の人よりもうまく」とか「もっと深く語れる」とか欲が出てくると一気に面白くなくなり、孤独になるのです。
ということは、「時間ピッタリ」なんて意味がない気もしてきます。
それでは、僕は映画をじっくり楽しみたいので一足先に。。。
「バルス!」